1 昭和32年(1957)~平成11年(1999)

*創立80周年記念誌『やぎさき』および『春日部高校百年史』より。
『やぎさき』は昭和54年(1979)10月に発行され、原文執筆者は当時の顧問だった唐沢清一・
  石川信夫両先生によるものである。『春日部高校百年史』は平成11年(1999)10月に発行され、
  ほぼ『やぎさき』に掲載された内容を転用しつつ、当時の様子を踏まえて一部加筆・修正され
ている。

 バドミントン部は、昭和32年(1957)4月、同好会として発足し、翌年4月、五十里光秋先生を顧問として部に昇格した。{*五十里先生はのちに県協会理事長として埼玉県バドミントン界発展に貢献された}
当時、体育館はなく校舎と管理棟の間にネットを張って練習を行い、週1,2回、大宮の県営体育館を借用して練習していた。この頃、男子のバドミントン部があったのは浦和(定)・小松原{*現叡明}・浦和商・浦和西・鴻巣・春日部の6校のみであった。関東大会には埼玉県から4校出場できたため、昭和33年から昭和47年まで、連続15回出場を果たし、うち6回はベスト8に進出した。
 昭和33年から昭和36年にかけて、個人戦(シングルス・ダブルス)で全国大会{*当時はまだ多競技による総合大会すなわち現在のインターハイではなく単独競技の大会だった}に出場した。昭和36年に個人シングルスで出場した中山廣明は、早大進学後頭角をあらわし主将を務めた。同氏は後に日本バドミントン協会理事として、国際試合の審判等で活躍した。
 昭和38年には、学徒大会{*現関東大会県予選}・全国大会予選{*現インターハイ予選}・県民体育大会{*当時の国体予選}の三大タイトルを独占し、団体戦での全国大会初出場を果たした(選手=荒木・金子・餘野木・永瀬)。その後、餘野木は慶大に進学し、関東大学一部リーグで活躍した。
 昭和40年4月、顧問に就任した唐沢清一先生の指導で春高黄金時代が始まった。
 昭和41年には、学徒大会では2位に甘んじたものの、全国大会予選・県民体育大会に優勝した(選手=平原・関根・鈴木・加藤)。
 昭和47年の全国大会予選では、大宮西高との対決になり、ダブルスで2試合を先取されたが、シングルスでは木村義明・白子孝らの活躍により3試合連取して大逆転の末優勝した。
 昭和49年にも団体での全国大会出場を果たしており、団体戦での出場は4回を数えている。また、昭和44年・48年・50年・53年・54年には、個人戦で出場しており、全国大会出場は合計13回に及んでいる。
 関東大会連続出場の記録は15回でストップしたが、その後4回の出場しており、合計19回と県下では男女を含め最多出場を誇っている{*1999年当時}。