▼下の記事は、昭和35年(1960年)7月18日付の『春高新聞第55号』に掲載されたものです。

【草創期の記憶~本橋吾朗さん(昭和36年3月卒・高13回)の手記から】
 全国大会に参加した記憶があります。
 バドミントン部創設当時は、4階建ての校舎と2階建ての事務棟の間に1面のコートを作っての練習でした。壁打ちは、校舎の側面を利用していました。
 2年目は、講堂が使えるようになりました。卓球部と半々で利用です。コートは1面で、サイドは50㎝、バックは20㎝程度の余裕しかなく、ハイクリアーは当然打てる高さではありませんでした。でも、風の影響を防げる環境は最高でした。練習時間も照明完備で自由となりました。
 県の大会は、主に浦和高校や熊谷女子校が会場になっていました。鴻巣高校との練習試合を行ったときは、当然本校ではできませんから相手校に出かけるのですが、生徒だけで出かけ、雨で帰りに東武野田線の大宮公園駅と大和田駅の間あたりの線路陥没で不通となってしまいました。幸いにも3年生の中村さんのお父さんが東武大宮機関区の助役で宿直をしていましたので、各人の家庭に電報を打ってもらい、宿泊させてもらったことがあります。
 私が2年時の昭和34年、全国大会(※補足。以下同じ=現在のいわゆるインターハイ)に参加した記憶があります。チーム編成が、関東大会は「1複2単」ですが、全国大会は「2複3単」です。ですから、選手は7名までの申請が可能です。
 この年の3年生は、キャプテンが岩槻の増田さんで、相方は久喜の中山さん(初代会長の中山さんの兄)です。この二人がチームを牽引し、3年生4名、2年生3名でチームを編成しました。試合に出るのは3年生で、2年生は補欠要員でした。当然私は補欠要員でしたが、参加できたのです。
 全国大会の予選は、浦和西高校が会場だったと記憶しています。3年生の増田キャプテン、中山副キャプテンのコンビと久喜(?)の五月女さん、浦和か大宮(?)の増保さんのコンビ、それに2年の本橋、越谷(父親が皇宮警察で埼玉銀行に就職した)の矢代、箕輪(?)の吉田が登録されました。
 試合(※決勝戦の対戦相手は浦和高校定時制)は、ダブルス2試合を取り、シングルスの1試合目、増田キャプテンが1セットを取ったものの、2セット目に連続の試合からの疲労からか1-14のカウントに追い込まれました。このあとの陣容から、これを落とすと勝利が非常に遠くなります。しかし、増田さんはサーブ権の移動を繰り返し(※現在のラリーポイント制ではなく、当時はサービス権を持つサイドのみ得点になった)、残り1点のピンチを挽回し勝利しました。歓喜、歓喜の一瞬でした。
 全国大会は会津若松市です。遠征費は、片道は急行の使用が許され、宿泊は開会式前日到着、敗戦翌日に帰宅の決まりです。片道の急行料金は請求しましたが、往復鈍行利用でした。
 会津までの行きは、各人が赤羽までの切符を購入し、赤羽駅の構内が集合場所でした。そこから団体行動で、各駅停車でなが~い旅です。さすがに疲れました。宿は、下宿屋風の部屋でした。
 開会式は午後に始まり、ある中学校の校庭に集合し、大編隊のブラスバンドの先導で市内を行進しました。到着した大きな体育館で、剣舞などが催された盛大な開会式でした。ブリキ板を打ち抜いた簡単な物にリボンを付けた参加章が渡されました。市内バスの乗車パスになる便利ものでした。
 試合数が多い大会ですので、試合までの余裕がありました。増田さんのご両親が日程を合わせて東山温泉に投宿されていました。温泉までの移動は無料バスで、温泉は原瀧温泉の千人風呂を何度か楽しみました。観光地も、移動が無料だと出かけたくなります。鶴ヶ城の石垣も登りました。自分たちと同年代の少年達が割腹したと思うと、考えさせられました。
 当時の埼玉の実力は低く、特に男子は関東でも底辺でした。翌年の関東大会は、会場が大宮でしたが、男子は緑ヶ丘高校(※神奈川県立横浜緑ヶ丘高校)が生徒2人だけで来て優勝していきました(※当時の1複2単は同じ選手が単複を兼ねられた)。
 翌年、吉田が熊本で開かれた国体にシングルスで出場しています。
 我々が2年時の昭和34年、春日部高校は創立70周年だったかと思います。県の体育大会で総合優勝(※当時は運動部の全競技で得点を競い、合計得点の最も高い高校が総合優勝という制度があった)は、熊谷と川越が1回ずつで、あとは全て浦和が確保していました。「70周年記念に春日部も」と頑張りましたが、成りませんでした。しかし、我々3年時に総合優勝しました。バドミントン部も優勝し、得点7を獲得して貢献しました。
 思いつくままを書き綴りました。全国大会には参加しているのですが、「県での予選も会津の大会も試合をしないで名前だけ参加した」おかしな全国大会の参加です。